宮崎駿氏が、ドワンゴの川上氏に対して、「極めて何か、生命に対する侮辱を感じます。」と不快感を露わにしたことが話題になっていますが、この件について少し思ったことを書いていきたいと思います。
宮崎駿氏はジブリ作品の有名作品を生み出してきたアニメーション映画監督ということで、今更説明する必要はないでしょう。
僕も、ジブリ作品の大ファンで小さい頃から何回も何回も繰り返してラピュタやナウシカなどを見ていました。そんな宮崎駿氏の過去の作品を頭に浮かべながら、今回の出来事について考えてみると、まあ宮崎駿氏の怒りももっともなのかなあと・・・
僕は、宮崎駿氏は自身の感覚的でアナログな手法で生命(に見える存在)を生み出すことができる存在だと思っています。それはマジで、ある視点から見たら完全な存在で、今回のドワンゴが提示した人工知能の不完全な生命的な気持ち悪さとは間逆な性質のものなんですよ。
そういう意味では、あのゾンビも非常に完成度が高くて、あれが「ゾンビの動きに使える」と言われたら「なるほど!よく出来てるね!!」となります。「ゾンビ」という「生命の自然な流れに逆らう存在」という意味では、ものすごくリアリティーがあるんですよね。
だけどあれは宮崎駿氏には、我慢ならないほど腹が立つ存在だった。
だから、(あまり詳しい事情は知らないけど)どうしてこの人達を出会わせてしまったのか?みたいな意味で、ミスマッチだよねとしか言いようのない不幸な事件だったなあと思いました。
アニメの神が人工生命の存在を許さないのは当然。大人げないけど仕方ない
ちなみに我が家にはテレビはないので、NHKの番組そのものは全部見ていなくて、どっかのまとめサイトが埋め込んでいたYoutubeの動画を少し見ただけです。
だから、あのドワンゴ川上氏のプレゼンのシーンの前後の事情は全く知りませんので・・・その上での感想です。
「生命」をテーマにしたアニメーション
宮崎駿氏の作り出す作品は、その全てが「生命」というテーマを内包しているんですよね。
わかりやすいところで言うと、ナウシカは腐海と人間と蟲とのあり方と生命の再生を描いている作品だし、もののけ姫なんかも生命の生と死と人間と自然との共生をテーマにしている作品です。
もっというと、ラピュタも、トトロも、豚も、魔女宅も、ポニョも、全部が「生命とそれに対する関わり方」だとか「生命の成長」に関する事柄が主題となっている物語です。
そう考えていくと、宮崎駿氏がライフワークとして僕達視聴者に伝えたかったことというのは、「生命の神秘」だとか、人間も自然の流れの中の1つの存在」みたいなことなんじゃないかなと思います。
生命感あふれるアニメーション
また、ストーリー的な意味だけでなく、宮崎駿氏のアニメーションは、その動きそのものが生命感に溢れています。
僕は、最近のTVアニメも少しだけ見たりするんだけど、それはそれですごいおもしろいし素晴らしい作品もあるんだけど、やっぱり宮崎駿氏のジブリアニメにはかなわない部分があると思うんですよ。
以前、8年くらい前にラピュタをじっくり見てみようと思ったことがありまして、そうしたらオープニングだけ見て感動しすぎて泣いてしまったことがありました。それはなんでかって言うと、ちょっとした人物の動きだとか、いろんなものがやばかったからです。
ここで言葉だけでは伝えきれないんだけど、なんというか・・・とにかく自然で完璧なんですよ。あの時は、アハ体験みたいにそれがブワッとわかってしまった瞬間で、まるで生命の誕生に立ち会うかのように涙が溢れてきたんです。
この世界には、空気があって、風があって、重力があって、物体には柔らかさや硬さがあって、それでいてそれらの全てがつながっていて、そういったものが時間が流れることでそのような動作をするのか・・・それらが極めて自然に描き出されているアニメーションなんですよ。
小さい子どもが、ジブリのアニメーションが大好きなのは、極めて自然に近い状態で構成された映像作品であるからなんじゃないかな。
それと、宮崎駿駿氏の生み出す「どろどろしたモンスターの方がグロい」という意見もあるみたいだけど、それは今回の本質とは全く違う話です。むしろ宮崎駿氏のホラー的な怪物は全部生命感に溢れているんですよ。
千と千尋のカオナシにしても、もののけ姫の祟り神にしても、あれは命あるものが暴走している自然な動きなんです。だから、あれはグロいし怖いけど「気持ち悪くはない」のです。
リアル過ぎたゾンビ
それに比べて、ドワンゴ川上氏が提示したのは、あまりにもゾンビっぽい動きをする人工知能でした。
ゾンビは痛覚もなくて、おそらく生きている人間とはちがって、破損している箇所もあるでしょう。そうなると、あの動画のゾンビアニメーションはマジで完成度が高いです。
上記のような条件で活動する人間の形をするものが存在するとしたら・・・やはりああいう感じなんだろうなあと思いました。
しかし、これって、ここまでに説明した来たような宮崎駿氏が生み出してきたものたちとはコンセプトが間逆なものなんですよ。
ゾンビってのは、言ってしまえば「生命の流れに反している存在」だからです。
しかもそれが、「人工知能」ということで勝手にああいう動きをする存在、それを作り出した!というじゃないですか。これは宮崎駿氏が動揺してもおかしくない。自分が信じて表現を続けてきた作品と、相容れないものだからです。
だからこそ、最高に「気持ち悪い」。
「極めて何か、生命に対する侮辱を感じます。」
この発言はまさにその通りで、極めて完成度が高い形でゾンビを作り出すことに成功したってことです。それはすなわち自然の流れに逆らうものを作り出したということだから「生命への侮辱」を行っているのは間違いないわけです。
それだけ宮崎駿氏を怒らせることに成功したということは、アニメの神的存在に「リアルなゾンビ」であると認めてもらったということです。だから、ある意味でドワンゴ川上氏のプレゼンはあれはあれで大成功だったんじゃないかなとも思うわけです。
だけど、正直言って、あの場で宮崎駿という権威ある人間が、他者に怒りをぶつけてしまうと言うのは大人げないよねとは思いました。
ドワンゴ川上氏への「極めて不愉快」発言は宮崎駿氏が圧倒的におかしい - さようなら、憂鬱な木曜日
上記の記事も読んだのですが、もう我慢するとかしないとか、そういう問題じゃないくらいの、抑えきれない怒りを感じたんだろうなあと。
ゾンビは生命に似た存在ではあるけど、生命ではありません。擬似的な生命体です。
将来的には完璧な生命としての人工知能が完成するのかもしれないけど、今の段階ではあれが精一杯ということなのでしょう。
でも、宮崎駿氏が表現してきたのはリアルな生命なんですよ。そこには気持ち悪さとかは全く存在しなくて、極めて自然な存在を、自分自身の感覚とそれを表現するための訓練を積んだ結果生み出してきたはずです。
そうなると、この話はどっちが悪いとか良いとかそういう話じゃなくて、「相容れない考え方の2人が出会ってしまった」という不幸な事件だったというだけの話なのかなあと思いました。
まとめ
そう言えば、「鋼の錬金術師」というアニメでは「人体錬成」という、人間を錬金術で生み出す行為が禁忌とされていたりするけど、これも今回の話とも少し関係するんじゃないかなとも思ったりもします。
ハガレンだと、結局のところ人体錬成をすると体の一部を持って行かれたり、それどころか人の形にすらならない気持ち悪いものを生み出すだけだったりします。人体錬成を完璧に成功させることは不可能だったんですよ。
人体でもなんでもそうだけど、自然界の生物などの複雑なものを「リアリティーある表現」として創造するのってものすごく大変なことなんですよ。それができるようになるには、美術的な言い方で言うとデッサン力だとかそういうのをものすごく鍛えなくちゃならんのです。
宮崎駿氏は、あそこまでの作品を作ることができるようになるまでに、常人には不可能なくらいの量の訓練をしていると思うし、もちろん天才的な人間だとは思うけど、あれはそれだけの努力がそれを可能にしているわけです。
ゾンビってのは、やっぱり不完全な生命であって、異形の存在です。だから、確かにあの動画のゾンビの動きはリアルだったけど、宮崎駿氏からすると、とてつもなく安易な存在なんですよ。不完全な人体錬成を見せられたようなもんです。
そういった意味でも、無理だったんだろうなあと。そりゃ怒って当然だよねと。
あれはね、ホントに相手が悪かったんですよね。
ただ、人工知能の分野は非常に可能性を秘めている技術だとは思います。宮崎駿氏の個人的な怒りは置いておいても、どんどん発展していくといいなと思うし、将来的には僕達の生活になくてはならないものとなるでしょう。
今はゾンビしか作れないかもしれないけど、もっと研究が進めばリアルな生命体や、人間に近いものも作り出せるかもしれません。
ひょっとしたら「ターミネーター」みたいに世界の終わりの始まりかもしれないけど、だからこそアニメの神の怒りを買ったのかもしれないけど、個人的にはそっち方面も頑張って欲しいよねと思いました。

- 作者: 宮崎駿
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